仁王門
仁王門の斗組(ますぐみ)は三手先(みてさき)斗組を用いた本格的なものとなっています。
創建は天平元年(729)と伝えられ、後の加賀藩主前田利家公が天正4年(1576)に修造したといわれています。
荒子観音寺は、浄海山円龍院観音寺といいます。
江戸時代の終わりに時の住職が、寺の由来などを記した『浄海雑記』全4巻によれば、観音寺は古く奈良時代、聖武天皇の天平元年(729)に泰澄和尚によって開基されました。
場所は現在地より北8丁(約1キロ)の地でした。
泰澄和尚は北陸の霊峰白山を開いた名僧で、北陸・近畿・東海を遊歴して、各地に寺院を建立しました。
観音寺もその1つで、御本尊の聖観音像は泰澄和尚の御自作と伝えられ、33年に1度御開帳されます。
天平13年(741)には法相宗の自性上人が七堂伽藍を建て、寺としての姿を整えました。
その後、寺勢は衰え、戦乱に巻き込まれることなどもあって荒廃したようです。
寺の古い記録、文書などもことごとく失われており、古代、中世の観音寺の様子はよくわかりませんが、中世にはこの地方きっての天台宗葉上流の談義所(学問の道場)であった春日井市の密蔵院に属する大寺として、多数の憎徒を擁し、学問なども盛んであったようです。
天文5年(1536)には観音寺の塔頭常住院の賢俊上人によって、多宝塔が再建されました。
この多宝塔は名古屋市内で最も古い木造建造物で、国指定の重要文化財となっています。
織田氏が尾張を統一しようとしていた永禄(1558~70)頃に、観音寺は中興開山の全運上人によって再び堂宇が甍を並べるようになりました。
本堂は天正4年(1576)に前田又左衛門利家公が再建しました。
利家公は荒子城主前田利昌の4男に生まれ、織田信長に仕え、後、豊臣秀吉から加賀の国を与えられた戦国武将です。
前田氏は菅原道真の末裔で、利家公は荒子城内の天満宮を崇めていた関係で、その別当を努めた観音寺にも深く帰依しました。
しかし天正12年(1584)の太閤検地によって、それまで30余町あったという寺領は没収され、9反ほどの観音灯明田が与えられました。
江戸時代には尾張藩主徳川義直、同光友の帰依を受け、折祷料田などの寄進を受けました。
また、藩主吉通の室で九条家から嫁した瑞祥院殿を始めとする方々の尊崇を受け葵紋の入った提灯、打敷、灯龍などが寄進されたりしましたが、明歴年間(1655~58)、文化年間(1804~18)などに火災にあり、その都度再建されました。
その後、明治24年(1891)の濃尾大地震で倒壊、再建されました。
幸い名古屋大空襲では被害を免れましたが、昭和20年(1945)の三河地震により再び倒壊し、再建されました。
そして平成6年(1994)に本堂が焼失、平成9年(1997)に再建されました。
昭和27年天台宗から独立し単立寺院となっております。
観音寺は尾張四観音の一つとして庶民の信仰を集めてきました。
仁王門の斗組(ますぐみ)は三手先(みてさき)斗組を用いた本格的なものとなっています。
創建は天平元年(729)と伝えられ、後の加賀藩主前田利家公が天正4年(1576)に修造したといわれています。
六角堂は、室町時代末期(おおよそ16世紀ごろ)に建てられたと伝えられています。
小さな建物ですが、柱や屋根の造りなどに時代を感じさせる美しさがあり、六角形の堂宇は全国的にも珍しく、地域の人々に長く親しまれてきました。
六角堂の近くに鐘楼(しょうろう)があります。この鐘楼は、伝統的な日本の寺院建築様式である入母屋造(いりもやづくり)の屋根を持ち、屋根材には本瓦が使用されています。
構造的には、二軒繁垂木(にけんしげたるき)で、柱間の台輪中央に出組が配され、垂木端や組物には胡粉(ごふん)が施されており、全体として風格ある佇まいを見せています。
鐘楼の内部には、格天井から梵鐘(ぼんしょう)が吊り下げられています。この鐘は、毎年大晦日に行われる除夜の鐘の際に一般の参拝者もつくことができ、例年約2000人が訪れる人気の行事となっています。
また、鐘楼の周囲には、赤い帽子と前垂れを身に着けた地蔵石仏群が玉垣に囲まれて鎮座しており、訪れる人々の目を引きます。
荒子観音寺の鐘楼は、建築的な美しさと地域の信仰行事の中心としての役割を兼ね備えた、見どころの一つです。
浄海山円龍院観音寺
〒454-0861 名古屋市中川区荒子町宮窓138
電話番号 | 052-361-1778 |
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受付 | 9:00~17:00 |
開門7:00 ~ 閉門17:00 |